父との別れ
こんにちは。しおんです。
ご無沙汰していましたが、先週は怒涛の一週間でした。
◆父が旅立ちました
膵臓がんで緩和ケア病棟に入った父。
母と交替で、個室のソファに泊まり込んで付き添っていました。
好きな音楽を流したり声をかけたりしながら過ごした数日間。その間に、次第に父の意識はおぼろになっていきました。
徐々に血圧が下がって、最期の朝は、私がみている中で静かに呼吸が止まりました。まさに、息をひきとるという表現通りの穏やかな最期でした。
◆お別れのとき
交替のために母が到着した時、まだ父の頬はあたたかく。
母も、額に手を当ててぬくもりを感じながらお別れをする事ができました。
その後は、ナースコールをして看護士さんが来室され、医師の先生に臨終と判じて頂きました。
入院してわずか6日目の朝。あまりに早くなかなか気持ちがついていきませんでした。
でも、最後まで有言実行の人だったなぁ。
◆怒涛の一週間
その後は、いろいろな手続きが必要でした。
各所への連絡、湯灌、葬儀社の迎えを待つ間に退室の準備、父とともに移動。安置して頂いた傍らで葬儀などの打合せetc.
亡くなった翌日にお通夜、明けてお葬式をとり行いましたが、身内のみで、父の好きだった歌をかけながら、"お別れの会"といった趣きの会になりました。
本人が生前に希望していた通り、お経なし・戒名なしのお式にできたので、ゆっくり語らえて良かったです。
家族皆、思い思いの言葉を紡いで、父を見送ることができました。
それでも、いろいろな手続きや決める事が目白押しで、一連のことを終え山荘に戻った時はホッとしました…。
なんといっても、私以上に、母がかなり疲れていたので、気を揉みました。また、家族葬でこんなに大変なら、一般の葬儀だったらどんなにか大変なんだろうとも思いましたね。
◆撤収&帰京
その後、遺影をリビングに移してゆっくりしてもらっていました。
庭の菊を供え、朝晩はお線香を。
また、折に触れ話しかけていましたが、まだそこにいるようで…
頭の中で声が響くのに、父の姿がないのがなんだか不思議な感じですね。
そのかたわら、病院への支払いや挨拶、介護ベッドの返却、年金などの手続き等を手配して。
忌引き休暇いっぱい+1日有給休暇をもらい、先日、東京に帰ってきました。
◆兄弟や制度に感謝
結局、有給休暇を20日、介護休暇5日、忌引休暇を5日頂いたので、通算30日間休んだ事になります。
最後はあっという間だったので、介護休業にも至りませんでした。
長いようで短かったような、やっぱり長かったような…
でも、予定より2週間早く蓼科に行って、本当によかったです。
まだ力のある父と一緒にいた時間、母と共に戦った時間は、胸のなかの大切な場所でキュッと保存されている感じです。そして、一連の出来事を共有した母を、これからも支えていきたいと思っています。
ところで、改めて考えると、こうした悔いのない介護ができたのも、精神的には兄弟の支えが大きいですが、ベースには会社のチームメンバーの協力や人事制度がありました。
特に今回、労政の方の支援がとてもありがたかったです。
普段はあまり気づかないですが、いろいろな人や制度に支えられているんだなぁとしみじみ感じました。
◆日常の歯車が…
さて、明日は久しぶりの出社です。
まずは感謝の気持ちをお伝えし、その上で実務を頑張らないとね。
一応メールは追いかけていましたが、現場感を把握して実際に役に立つべく、しばらくは仕事を頑張ります。父の娘として恥ずかしくないようにありたいです。